セネガル2年間を振り返る(後編)


続編です。

2年間の活動についてです。

私は活動で何か変化があったり、大きなイベントをしたり、発見があったときにこのブログを書いていたので、このブログを常々読んでくれていた人からすれば、ひょっとすると、私がすごく積極的に活動に勤しんでいたように感じたかもしれません。
しかし、自省するところでは、多くの隊員たちは私よりももっと積極的に活動をしていたと思います。
これは私の性格でもあるのですが、どうしても、事は思いどおりにうまく進めたい、失敗したくない、意義ある成果につなげたいという考えがあって、そのためにあれこれと理屈っぽく計算するんです。
しかし、まー、考えてみれば、日本から来た若造がセネガルで事を思いどおりにうまく進めるなんて、相当難しいわけです。
少なくとも、日本でよりも難しいです。
そういうわけで、ちょっと想像するだけで、「どうせ○○だから無理」とか、「こんなことをやっても意味がない」とか、開発ワーカー気取りで、「継続性がないからダメ」などということばかりが容易に思い浮かんできます。
それで、自分の活動の軸としていた養蜂以外にはあまり、手を出そうとしてきませんでした。
一方、どんどん、挑戦的な活動をしている他の隊員を見ても、内心、「それ、意味あるの?」とか、「疲れるだけやん」と思ったりもしていました。
でも、ただ疲れるだけで大した意味もなく、継続性もない活動でも、そんな活動をやっている隊員の方が、俺より偉い!と、ある頃から思うようになってきました。
何が偉いのか?、と問われると、それを理屈で説明するのは少し難しいのですが、しかし、直感的に、そう思うようになってきたのです。

そういう反省を経て、手間、成功する可能性、意義、継続性も無視して手を出したのが、国際文通交流でした。
メディナサバ第二小学校から文通の話を持ちかけられたのが12月で、私が村を離れるわずか3か月前。
しかも年末年始は冬休みもある。
村には郵便局がなく、県庁所在地の郵便局は紛失が多く、結局、州都の郵便局を使わなければいけない。
郵便が届くまで、片道1週間ぐらいかかり、郵送料、郵便局での受け取り代もかかる。
小学生同士だと、双方が英語で手紙を書くこともできないので、私が40通を日仏・仏日の翻訳をしなければいけない。
学校からの文通の要望を断る理由だけはどんどん、頭に浮かんできましたが、先の反省があったので承諾。
そして、この文通はセネガルからの2便目までが終わり、つい昨日、高松の小学生たちが書き終えた2通目の手紙を小学校へ受け取りにいってきました。
私が帰国してからも続く方向で進んでいます。
日本のことをほとんど知らないセネガルの子どもたち、セネガルのことをほとんど知らない日本の子どもたちがそれぞれ、この文通で何かを感じてくれることを願って。

こんな感じで、2年間の任期を無事終え、日本へと帰ってきました。
日本人はよく働くし、よく考えているし、約束を守り、失礼を避け、相手のことを思いやり、街並みも清潔できれい。
ただ、帰国して最初過ごしたのが東京ということもあってですが、日本に帰ってきての第一印象は、商業広告のうるさいこと。
悪意もない、ごく普通の広告なのですが、スタイリッシュだったり、やさしい言葉づらと、かっこいいお兄さん、きれいなお姉さんの写真を使って、結局は商品を買わせよう、塾に通わせよう、会員にさせよう、契約させようなどという話で、ようは、金を使わせようというメッセージが東京には氾濫して見え、嫌でし
た。
セネガルみたいに、面と向かって「金くれ!金くれ!」なんて言う人は日本にはいませんが、逆に、セネガルでは視覚的に「金くれ!」というような商業広告は首都以外ではほとんど見ませんでした。
タバスキ(イスラム教の犠牲祭)が近づけば、何となく、もうすぐでタバスキだという雰囲気が村にはあふれていました。
一方、日本ではクリスマスも母の日も、何か、商業広告に押し付けられているような感じがしませんか?
何でも商売、ビジネスチャンス、というか、拝金主義な社会というか。
別にそれが悪だとは当然言いませんし、私自身も、セネガルに行くまでは一会社員であり、営業マンでもありましたし。
でも、セネガルから帰ってきてすぐの時点では、ああいった広告のうるささが嫌でした。

そうは言っても、これから日本に居を構え、仕事を見つけ、暮らしていきます。
ちょっと町ですれ違っただけでは、この人(俺)がまさかセネガルで2年間過ごしていた人だとは分かりません。
でも、行ってました、セネガルに2年間!
頼まれさえすれば、その経験を還元していくつもりです。
既に何件か、その依頼もいただいていて、極力それらすべてに応えていこうと思っています。
国民の税金で行かせてもらったセネガルなんだから、それぐらいの還元は喜んでします。

さて、これでNdank Ndank Senegalのブログも一旦、更新を終了しますかな。
もし今後、セネガルのことで動きなんかがあれば、更新するかもしれません。

帰国後もブログをやってみます。
続編は「んだんく うどん」です。
まずは、4/16から5/19まで行っていた、東欧の旅行記をぼちぼち書いていこうと思います。

セネガル2年間を振り返る(前編)

前回、このブログを書いたのが4/12。
「次回は5月末かなー」と書いて締めていますが、そのとおりになりました。
はい、5月末です。

前回は帰国してからの1週間ぐらいの、ばたばたした日々を書いたわけですが、今日は改めて、2年間の協力隊を振り返ってみようと思います。

まずは、このブログを書こうと思ったきっかけなのですが、実は、事業仕分けがあります。
御上の方で何やら議論をしているのであれば、その協力隊事業で現場へと出て行っている当の協力隊として、何か発信してもいいんじゃないかと。
別に、協力隊事業を擁護するわけでも、批判するわけでもなくて。
私の発信が議論をしている立場の人たちに届こうが届くまいが、途上国へ行っている当の協力隊の一人として、現地に暮らす人々の様子、自分自身の活動、考えたことなんかを日本の世の中に向けてもっと発信しよう、知ってもらおう、と思ったわけです。

実際、ブログというものを書いてみると、私自身の活動やセネガルライフの記録、思い出にもなりますし、こうやって文字に起こすことで、自分の頭の中の思考がすっきりしたりもします。
また、セネガルでの隊員生活には時間的な余裕も十分にあるので、ブログを書くことも苦になりませんでした。

事業仕分けに関連して書いておくと、私自身も確かに、この協力隊事業には議論の余地がかなりあるように感じました。
「あれだけのお金(税金)をかけて、これだけの効果?」、という印象がありましたし、「えっ、こんなに良くしていただいていいんですか?」と思うことも正直、多々ありました。
そこに事業仕分けが入って、まさに私が派遣されていた2年間で、新しくやって来る隊員たちにかかる経費は目に見えてばっさりと削減されていっていました。
間違っても、安全、健康に関わる予算の削減で、隊員が危険な目に陥ることは避けてもらわなければいけませんが。

次に、私がこの協力隊に参加した動機ですが、それはこのへんで、
セネガル行きのこと(1)
(2)(3)(4)(5)

で、それが派遣1年目ぐらいに、こうなりました。

帰国後のこと(1)
(2)(3)(4)(5)

ざっくりと言えば、1つ目には、アウトサイダー(外部者)として地域に貢献する(例えば、日本人開発ワーカーがセネガルの農村を発展させようとする)よりはむしろ、地元民として地域に貢献したい、と思うようになったこと。
2つ目には、その「地域貢献」というのも、何も開発ワーカーや公務員といったポジションに居なくてもできる、ということが見えてきたこと。
3つ目には、家族、親戚、友人などの近しい人たちに囲まれて、地元である香川県高松市で暮らしたいと思うようになったこと。それまでは、どんな仕事をしたいかを考えたことはあっても、どんな暮らしをしたいかって、考えてこなかったんだと思います。
これらは、セネガル人の開発ワーカーや、そうではない、ごく普通のセネガル人たちのごく普通の暮らし、やり方なんかを見て影響を受けて、考えさせられたことです。


長くなってきたので、前編はこのへんで。

日本での話

あれよあれよと、前回のブログ更新から
1週間ほどが経ってしまいました。
そのぐらい、日々がばたばたとしております。
前回は、任地、メディナサバ村を離れ、セネガルを発つところまでを書きました。
今回は、帰国してからのことを書いてみようと思います。


はい!帰ってきました!
セネガル21-4次隊+21-2の延長
隊員、総勢19人、成田空港に着きました!

みんな、セネガルに居たときに比べれば、随分とこぎれいな、
日本仕様の身なりになっているな、と思ったのは、
まだ俺の目がセネガルしようだったからでしょうか。
特に女性陣たちはその日のうちに都内でもっと
こぎれいな服などを買い込んでいたようです。

帰国してからの数日間、都内で帰国オリエンテーションや
健康診断、事務手続きなどがあって、その間の滞在はバンビ
隊員と一緒にゲストハウスや旅館にて。
中野で3泊、谷中で1泊。
このうちの谷中の旅館は、澤の屋旅館というところ。
家族経営の小さな旅館ですが、外国人旅行客に
絶大な人気があって、その経営者が観光庁の
観光カリスマに認定されたりと、割と有名なところ。
いつか泊まってみたいと思っていたところです。
なるほど、随所におもしろみをもたせた
旅館で、居心地もすごく良かったです。

帰国して最初に口に入れたものは、バンビ隊員と
行った中野でのラーメンと、つい一緒に、注文
してしまったアサヒスーパードライでした。
うまい。これ。
写真撮り忘れたー!


(広尾にあるJICA施設)

3/22(木)に帰国して、3/26(月)まで東京に滞在している間、
世界各地から帰ってきた同期隊員たちと会って飲んだり、派遣前
訓練でお世話になった群馬の方へ帰国のご挨拶に行ったり、
早速、携帯電話を買ったり(ガラケー)と、大忙しでした。


その途中に見かけた桜が、これ。
ソメイヨシノとは違う種類で、それよりも早くに咲いていました。

しかし、実は、案外、「帰ってきたなー」
という感じはしていませんでした。
同じ日本とは言え、関東は俺にとって
全く、なじみのない土地なので。

3/27(火)朝、夜行バスで名古屋に到着。
レンタカーを借りて、協力隊に参加するまで
勤めていた会社と、お世話になっていたお客さんの
ところへ、帰国の挨拶に回ってきました。
3年ぶりに名古屋の道を車(レンタカー)で走りましたが、その
ときにやっと、「帰ってきた!」という実感が湧いてきました。
名古屋は郷里ではありませんが、
日常を過ごした土地に戻ってきました。
道順も普通に覚えていました。
もうとっくに会社を去った身なのに、上司、先輩社員、同期
社員、お客さんの久々の笑顔に迎えられ、本当に嬉しかったです。
本当はもっと、色んな人たちに会いたかったのですが、
翌日には名古屋を離れ、高松に帰郷、帰宅しました。

いかん、眠い!
セネガルで昼寝の習慣がつくと、
日本で昼寝なしだと夜が本当に眠い。
まだ日本人になりきれていないか。

このブログ、あと数回続けます。
でも、明日から東北と東欧へと1ヶ月ぐらいの旅に出る
ので、次回は帰国後の5月末かなー、インシャーラー。

さらば、メディナサバ村!

前回のブログ更新がセネガル時間で3月12日、
メディナサバ村から首都ダカールに上がる前日でした。
それから1ヶ月弱経ちまして、今、この
ブログは香川県高松市の実家で書いています。

青年海外協力隊は終わったわけです。

Ndank Ndank Senegal、最終章(上)!


掃除片付けをすっかり終えた、自分の部屋。
ここで2年間、暮らしてきました。
5月と7月にまた、俺らの後任がこの村へやってきます。


メディナサバ村を離れる直前に撮った一枚。
「メディナサバの高田純次」と勝手に呼んでいる、大家さんの
ご主人と、プロバスケ選手を目指すその息子と一緒に。
お世話になりました。


その大家さんに紹介してもらったミニ・カール
(こんなバン)で最終上京しました。
車体にはMEDINA SABAKHの文字(写真の指先)。


メディナサバ村でこのカールに1人で乗り、出発。
内海、Bao Bolon川を渡ります。
赴任した年の雨季はこの道は水没していました。


それから、ダカールまでの沿線上の隊員たちを拾っていきます。
「私も途中まで乗せて行ってよ!」という
セネおばちゃんも一緒に。どこまでもセネガルです。
どんどん車内は賑やかに。


ダカール市内に入ったぐらい。
車が増えてきました。


ワッド「前」大統領の選挙看板。
憲法に反してまで三選を目指しましたが、俺らが出国した
あとの3月25日の決選投票でセネガル国民が
彼に叩き付けた答えは「Non」でした。


そのセネガル国民の期待を背負ったのは、Macky Sall氏。
1回目の投票で落ちた他の12人の候補(看板右)も、
決選投票では彼の支持に回りました。

こうして、メディナサバ村に別れを告げ、ダカールに到着。


ダカールに着いて、同期隊員、通称
「ケベ子」からお土産となるケベサックを購入。
セネガルのおばちゃんたちの手作りのかばんです。


関係機関への表敬訪問は、みんなセネガルの正装で。
これは、時間つぶしで行った高級ショッピングモール。


JICAの職員さん宅でのお食事会。
スモークサーモンといくらの
お寿司など、豪華な食事を腹いっぱい!


で、ダカールでの慌ただしい1週間を
過ごして、3月20日、セネガルを出国しました。
全世界で最も隊員数の多い国、セネガルで、
最も人数の多い隊次、21-4、18人です。
隊員連絡所(ドミトリー)玄関にて。

さらば、セネガル!

次回は最終章(下)です。

村からの最後のブログ

今日は2012年3月12日、Medina Sabakh村で過ごす最後の日です。


先週金曜日、高松第一小学校から届いた手紙をMedina
Sabakh第2小学校の生徒たちに配りました。
さて、子どもたちは日本の同年代の子どもたちからの
手紙と写真にどういう印象をもったのでしょうか。
そのまたお返事を今日、受け取ってきました。


同じく金曜日は、配属先であるNioro県森林局で最終表敬。
JICAに提出する活動報告レポートにも、局長
(後ろ右から2番目)からのコメントをいただきました。

昨日3・11は朝5:46(時差9時間)に黙祷。
いくらセネガルに住んでいます、モンゴルも大好きです、
と言ってもやっぱり、常にどこよりも気になるのは
自分にとってのホームである日本のこと。
それを強く認識したのが、去年のこの日でした。

そしてこの日はFalifa、Keur Moda Diao、Ndiagnene、
Ndiawara、Medina Sabakh、Mbap、Pakala、
Sanghap、Loyene、Hamdallaye Thiamene、
Santie Djiguimarと、11村を回って、挨拶をしてきました。
1日でこんなに回ったのはこれが初めてかな。
日曜日は大きな市場が開かれる日ということもあって、留守の人も
いましたが、そんな人たちも今日、我が家へ直接やってきたり、
普段は携帯の電源すら入っていない(電気がなくて充電できない、
お金がなくてかけられない)人が電話をかけてきてくれたりしました。


K.Moda村のDjibril Diagne氏と。
彼はコーラン学校の先生をしていて、そこで学ぶ
子どもたちへと、俺と同居人の服を1箱分、贈呈しました。
彼は子どもにも大人にも真剣にイスラムの教えを説く、熱心な
人で、且つ、今まで一度も「金くれ、物くれ」とせがんできたことも
なく、且つ、この村は村の規模もすごく小さくいし、
国内外の開発プロジェクトもほとんど入って
いない、ということで、服を渡す相手は彼に選びました。
お金や物をあげる、ということは普段、ほとんどしません。
その理由はいろいろあるわけですが、かと言って、
自分たちが要らない服を燃やして捨てる、
というのもこれまた、モッタイナイわけで。
そういうわけで、相手をよく吟味して、彼にあげることにしました。

あげた代わりというわけではないけど、「今日、3・11は
日本のために祈ってください」とお願いしておきました。


Mbap村にかかるセネガル国旗。
選挙キャンペーンで、政府から全村へ国旗が贈られました。
ほかにも、それまでなかった、村長への「給料」が突然、
支払われたり、車が贈られたりと、笑えてくるほどの
ばら撒きが、こんな農村へも届いています。


Sanghap村の子どもたちと、Ousseynou Ndiaye氏。
この3人トリオも、初めて会ったときに比べると大きくなりました。


Hamdallaye Thiamene村、Saco Thiam氏と。
前任者から引き継いだ養蜂箱で、蜂群が逃去して
しまっていたので、蜜蝋を付け直して再設置しました。


同じ村での別の日に撮った写真。
この日はイスラム教の勉強会(仏教的に言えば法会)がある
ということで、普段はMedina Sabakh村内で営業している
肉屋のMoussa Fallは馬車で出張肉屋。
牛1頭をさばいていました。


Medina Sabakh村に帰ってきて、ジビテリ
(焼肉屋)のDemba(写真中)を訪ねました。
Dembaが持っているのは臓物を腸で縛ったもの(ラハス)。
腹が減ったし、料理する気力も残っていなかったので買い食い。
そしたら、どこから現れたか、Amat Seck氏(同左)。
彼は明日から、国立土壌研究所の新しい
プロジェクトサイトへ現地調査で向かうとか。
かと思ったら、今日、彼から「俺、今、カザマンス(セネガル南部)へ
向かってるから。じゃーな、日本で元気でな!」との電話。
ちなみに、カザマンスはプロジェクトサイトとは全然違う。
なぜ??
よく分からんけど、いつもうろうろして、元気なようで何よりです。


そして今日、JICAの車で俺と同居人(帰国済み)の
バイクが首都ダカールへと返車されていきました。
帰るんだな、という感じがします。

で、もうすぐでやっと、掃除片付け、荷造りが終わりそうです。

残り一週間

さて、ここMedina Sabakh村での
暮らしも残すところ1週間+1日となりました。


同居隊員も先日、最終上京しました。
お向かいの大家さん(写真中の青い服)も親戚のお見舞い
ということで、親子のように、一緒にバスで上京して行きました。

ちょっとバタバタとしてきました。


先日、Ndiagnene村で採蜜。
4L弱ぐらいはあったのではないかと思います。
そのうちの2Lを俺がお客さんとして購入。
近所のお世話になった人たちに配ったり、
日本へのお土産として持って帰ろうと思います。
このおやじ、Mamath Diagne氏は眼光鋭く、口数も少なく、
養蜂箱を作るときは一人際立った職人気質を見せる人。
そしてなおかつ、フランス語での会話、
読み書きができるというインテリぶり。
しかし、この写真を撮ったのをあとで
見せると、大笑いで大喜びしてました。


同じく、Ndiagnene村にて。
お父さんとその子どもたちと日本人。
この日は「何もしない」をしに行ってきました。
ただ、雑談して、ラジオを聴いて、ご飯を食べるだけ。
そういう日もあっていいかな、と。
俺のひざに座っている子、Youssafaは
悪がきっぽい顔をしているくせに、すぐ泣く。


先日はずっと悪路、片道40kmぐらい行った
ところのNdiao Bambali村へ行ってきました。
住民組織PENC Diama Gaio代表のBacka Cisse氏から
その前日に電話があって、「明日、養蜂研修をする。
養蜂箱を作るから来てくれ」と言われて行ってみると、「だめだ!
今日は村のあちこちで結婚式があって、参加者が誰もいない!」

なんてこった。

葬式じゃあるまいし、事前に分かるはず、しかもあなた地元民やん!
俺以外にもう一人、地元NGOのスタッフ、Code Ndiaye氏も
呼ばれていて、彼は「うん、仕方ないな、また今度だ」
と言って笑っているので、俺もBacka氏の責任を
追及することはせずに、笑うことにしました。
このCodeという人は、知識があって、
頭の回転もよくて、なおかつ性格も良い。
人の悪口を言うのを聞いたことないし、
怒ったり、相手を不快にさせることもない。
立派な人だわ。

無駄足にはなりませんでした。
もし養蜂研修をするならするで、全然準備ができてない、
道具にも不備多しだったので、そういうのを指摘して、
「研修までに整えとこうね」と言っておきました。
彼は養蜂の知識と経験がまだありませんが、やる気は満々です。


高松の小学校から、Medina Sabakhの小学校への文通が届きました。
これからごりごり、仏訳していきます。

来月の今ごろは日本か

今、こちらセネガルは2/22。
日本帰国が3/22なので、来月の今ごろは日本というわけですな。

ここ数日、ネットが不調でしたが、元気にやっておりますよ。

昨日はMbap村とPakala村の養蜂箱に
蜜蝋を付け直しに行ってきました。
養蜂箱を設置して半年近く経つのに未だ蜂が入らず、何か手を
打たねばということで、一旦、古い蜜蝋をはがして、新たに付け直し。
蜜蝋も古くなるとにおいが弱くなって、
蜂をおびき寄せる力が弱くなるみたいなので。


Mbap村のMady Cisse兄弟(兄弟で同姓同名。左が兄。)


続いて、Pakala村のOusmane Cisse氏。
背景のバオバブがアフリカっぽいね。
地面に穴を掘って、その辺の枯れ草やバオバブの実の殻を
燃やして火を起こし、その熱で蜜蝋を溶かして溶着しています。


その数日前は、同じ県内の同期、バンビ隊員が
調整した、女性組合の合同会議を見てきました。
真剣な表情で打ち合わせ中。
こうやってたまに、近くの同期隊員の
活動を見れるのは、いい刺激になります。


そんなこんなで、ほぼ新車で貸与された
バイクも、走行距離が8,888.8kmになりました。

何の変哲もない、ごく日常的な村の様子も、もうしばらくしたら
見れなくなるのかと思い、写真を撮るようにしています。


たとえば、村のおばちゃんたちの青空市場。
「写真撮って」と言うからカメラを向けたら「あら、やだ」とか言い
ながら、布をきれいに頭に巻きなおしたりするところがかわいらしい。


たとえば、ヒエの脱穀作業のおっさんたち。
粉塵がものすごくて、帽子、サングラス、マスク、長袖
長ズボン、ゴム手袋と、フル装備で作業をします。
一見、かなり怖いけど、みんな陽気です。


たとえば、いつもたまねぎ、ジャガイモ、
にんにくを買う食料品店のおやじ。
この日は行くと、おやじが自分のカメラ付携帯で俺の写真を
撮ったので、「じゃぁ、俺も」ということで、俺もおやじの写真を一枚。
やたら難しいウォロフ後での値段の数え方は、ここで習いました。


そして締めはやはり、うさ太郎。

2/23追記
ついさっきMbap村のMady Cisseから電話。
「蜂が入ったよ!」
蜜蝋付け直しは効果覿面だったようです。

魚市場にて思う

昨日、メディナサバ村内の魚市場へお買い物に行きました。
ちょうど、魚を満載した馬車がそこに到着したところで、
お買い物に来た奥様方の戦場と化していました。
並ぶとか、待つということを誰もせず、魚売りの
おばちゃんもてんやわんやで、客を裁ききれません。

「あー、セネガルだなー。日本人ならもっと
整然とお買い物できるのになー」と思うわけです。

控えめな日本人である俺は、少し、落ち着くのを待とうかと
ただ立っていたのですが、横に来たおばちゃんが、
俺の知り合いだったようで(俺は覚えていない)、

「あら、Meissa、魚を買いに来たの?
何が欲しいか、ちゃんと言ったの?
あの鯵は1kg500Fcfaよ」、と世話を焼いてくれます。

「まだ注文してない。鯵を1kg買いたい」と言うと、
「じゃ、500Fcfa貸して」と言うので、渡しました。

ごった返す奥様方の戦を勝ち抜き、その
おばちゃんは俺に鯵1kgを渡してくれました。

こういう親切もまた、セネガルであって、
日本とは違うな、と感じたわけです。


帰宅して、はらわたとゼイゴ(鯵特有の
ギザギザしたところ)を取り除いたところ。
まな板の端から端まであるこんなでかい鯵、初めて見ました。
夕食のアジフライになりました。

ちなみに、


昼は恵方巻を食べました。
具材はレタス、味付き小魚、大根、しいたけ、お揚げさんです。

で、夕食後は、


同居人が巨大プリンを作りました。
我が家の鶏、「坂東」が産んだ新鮮卵を使っています。

蜂群逃去

ここ最近、蜂群が半年以上住み着き続けているにもかかわらず、
いざ、採蜜しようと開けてみると蜂蜜ができていない、ということが
Ndiagnene村、Keur Moda村と続いたので、採蜜にはまだ
早い段階で一度、「内検」をやってみよう、ということになりました。

内検とは、養蜂用語で、本気で養蜂をしている人たちは
数日に一度は養蜂箱を開けて、中の検査をするわけです。
検査では、女王蜂が元気かを確認したり、分蜂(蜂の
巣別れ)の前兆とされる王台(女王蜂候補の幼虫の
部屋)をつぶしたり、害虫駆除などを行います。
しかし、セネガルで農家のおっさんたちが片手間にやる
程度の養蜂では、そこまでの手間はかけていません。
基本、放置しています。

さて、7月に設置して、9月には蜂群が住み着いているのを
確認していた、Sangap・Thiamene村の養蜂箱。
これの内検を先日、行いました。
村のおっさんが防護服を着て、燻煙器を持って、現場へ向かいます。
それを俺は遠くから見守ります(刺されると死にかけるので)。

見ていると、どうも様子がおかしい…。

なんと、蜂が一匹もいなくなっていました。
これを、「逃去」と言います。


中にはこのように、以前、住んでいた蜂たちが作った
巣板が残っていましたが、カビが生えています。

巣は作られているものの、蜜がそこにあった形跡はありません。
これも問題です。

巣板は巣門(養蜂箱の出入り口)に近い方から
順に形成されているのは確認できてよかったです。
マニュアルなんかで書いてあることが、実際に
そうなのか、こうやって確認したいわけです。

また、養蜂箱の中にはゴキブリ、イモムシ
っぽいやつ、ハサミムシが大量にいました。
このイモムシっぽいやつが悪さをする、というのを
確か、何かの資料で読んだ覚えがあるので、
こいつがひとつの原因かもしれません。


で、この内検準備のために燻煙器の火を熾しているときに、
熱くなった燻煙器を触ってしまい、左手親指を火傷。
燻煙器の表面に塗られた塗料が熱で溶けて、それが
指に貼りついてこんなメタリックに指になりました。
数日、水ぶくれがひどかったですが、今は回復傾向。

とりあえず、この日は養蜂箱の掃除をしました。
で、来週火曜日に馬車に積んで
別の場所へ移設することになりました。

養蜂の持続性だなんだよりも、おっさんたちが蜂蜜を
収穫して、おいしい思いをしてもらいたい、というのが
今の願いなのですが、なかなかうまくいきません。