国境の村の歴史

前回の日記でメディナサバ村だけが長期停電という話を書き
ましたが、その翌日、11日目にして電気が復旧しました。
明るい夜、良いです。

その日記の中で、崩壊した養蜂箱の写真を1枚載せました。
まだ余っていたセメントと鉄骨と、村人が提供した建材用の砂利と
鉄骨を合わせれば作りなおせるぞということで、作り直しました。


完成。
父Ousman44歳と、息子Sedoくん6歳。
ちなみに、このお父さんの頭はアフロヘアーではありません。
ツバの大きな、ちょっとおしゃれな帽子をかぶっています。

この村、Pakala村で養蜂箱を設置したバオバブ林は、村内の住居
エリアからけっこう離れていて、ここまでは馬車で行き来しています。


その馬車からの風景。
この風景を見ながら、ある村人が話してくれました。

ここからちょっと行くと、隣国ガンビアになる。
セネガルとガンビアの国境線上、ちょうどここから
見えるあたりには昔、いくつか村があった。
フランス領のセネガル、イギリス領のガンビアと、国境線が
引かれて、そこに住んでいた村人たちは、セネガルで
暮らすか
ガンビアで暮らすかの選択を迫られ、そのどちらかへ移った。

国境線上の村々は、カオラック(州都)から
飛んできたフランス軍機の空爆で焼かれた。


セネガルの中にガンビアという小さい国があります。
この国は、植民地時代にイギリスが、内陸からの奴隷を輸送
するのに便利なガンビア川が欲しくて、当時、周辺を植民地と
していたフランスからガンビア川周辺だけを割譲したのが元です。
それは1783年のことなのですが、おそらく、強制移住や
空爆があったのは割りと近代になってからのようです。

アフリカの国境はたいていそうなんですが、今、
目の前にあるこの国境もまた、西欧列強国によって
引かれたものなんだな、ということを実感しました。
幸い、セネガルとガンビアの関係は良好で、
人々は自由に行き来することができます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です